愛情のユートピア
高校生の私には、世界中で何よりも大切な大好きな人がいました。その人への愛を惜しみなく周りに発信し続け、日々愛について考え、人を好きになって悶えていました。
痛々しくて懐かしいです。
昔は今よりもっと盲目的でした。
好きな人は芸能人だったので、私は所謂オタクでした。
好きになりたての中学生だとかそれくらいの頃は、ガチ恋と呼ばれるような恋愛感情を抱いていたと思います。何年も前のことなのであまり覚えていませんが、情緒が未発達だったこともあり、アイドルといえど異性を好きになるということを「恋愛」という感情でしか処理できなかった側面もあると思っています。
少し成長した後に、「信仰」という好きでいる方法を知りました。神と崇め奉り、その人を絶対だと思うこと。恋愛感情ってやっぱり苦しいんですよね。信仰って恋愛より盲目的だから、その愛し方を知って少し楽になった気がします。
でも、信仰は結局のところ偶像崇拝に陥りがちです。その人を信仰していたはずが、いつの間にか自分の理想を信仰してしまう。その人が理想に当てはまらなくなった時、最大の武器だった愛情は自分を苦しめる毒になってしまうんですよね。
そのギャップに苦しくなることもありました。
高校生だった私は成長し、社会に出ました。
大人になったな、と思います。
今もその人のことが好きです。私の人生最初で最後の最強はその人であって欲しいと願い続けています。
でも、あの頃のような苛烈な愛情では無くなりました。もっと穏やかで、緩やかな、凪いだ海のような愛情に変化していきました。
それでも、あの頃の自分は消えません。心の奥にずっといて、たまに姿を現すことだってあります。
それでいいと思っています。正しい愛し方なんでこの世には無いのだから。
正しい愛し方なんて無い。愛情がナイフに変わることも罪ではない。感情は自由だから、人が思いを抱くことは止められません。
人が人に抱く愛情に対して、間違っていると形容してしまうことは驕りであり傲慢だと思います。善悪はありません。
ただ、私の願いは愛する人の幸福と、自分がそれを心から祈ることが出来ることです。
私のバイブルだから、そんな人が幸せじゃないのは辛いから、理由はきっとそれだけです。
自分自身の楽しさのためでなく、その人に祈るために好きでいたいと願う人は、私の短い人生の中ではまだ1人だけです。
その人が今日も幸福で、よく眠れますように。