kila_kiraのブログ

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蛇にピアス

蛇にピアスを読んだ時、私が最初に思い出したのは、旧約聖書失楽園の話だ。人間の始祖であるアダムとイブ。二人はエデンの園と呼ばれる楽園に住み、そこには神が唯一定めた、絶対に食べてはならない禁忌の知恵の実あった。しかし、蛇がイブを誘惑し、ついに二人は知恵の実を食べてしまい、楽園から追放されてしまう。誰もが知る旧約聖書のこの話を、蛇にピアスを置き換えることは出来ないだろうか。私なりの解釈を書きたいと思う。
まずは、言わずもがなイブはルイである。そして、アダムはアマ。ではシバさんは? と考えた時、私は蛇としたいと思う。
何故、蛇なのか。この物語の大きなテーマ、「身体改造」であるスプリットタンは、ほとんどがシバさんの手によって行われている。そしてその行為はシバさん自身が「神だけに与えられた特権」だと評しているからだ。こう書くと、まるでシバさんが神だと評しているようだが、それは決定的に違う。神は自らの権利を「特権」などと思わない。シバさんは、あくまで、特権を一時的に濫用してみせる、神に憧れる蛇なのだ。旧約聖書の中で、蛇は神への反抗心を持つ生き物として描かれているというのが私の解釈だ。神だけに与えられた権利を、自分のものにしたがる、蛇こそが私の中でシバさんである。
では、この三者の関係を考えてみよう。蛇はルイに何を唆していたのか。蛇の誘惑は、神への反抗。つまり、アダムとイブが知恵の実を食べる前には知らなかった、性へ羞恥。ルイとシバさんの不義の性交渉である。無知なアダムであるアマは、蛇のシバさんとイブのルイの密通に気づかない。最終的にはイブの言葉に乗って知恵の実を食べてしまい、楽園から追放されてしまう、どちらにせよどこか哀れな存在なのだ。
ところが、ここで旧約聖書蛇にピアスでは決定的に違うところが出てくる。アダム、つまりアマの死である。
アマの死から、ルイは自暴自棄のようになり、作中の言葉を借りると、シバさんに囲ってもらう。心が追いつかない状態のまま、シバさんと時間を重ねるうち、アマの死についての情報から、ルイはシバさんがアマを殺したのではないかという結論に達する。作中ではそれ以上の言及はされていないが、私の考えもルイと同じである。アダムを殺したのは蛇だった。
どうして蛇はアダムを殺したのか? ここに、私はこの物語の本質を見たいと思う。この物語はあくまで「身体改造」を取り巻く男女の物語だ。皆、身体改造を繋がりとして出会い、自己の体にしろ、他者の体にしろ、アマ、ルイ、シバさんは全員、本来の人間の体に手を加えようとする。それは、いわば神への抗いである。この物語は神に抗おうとする物語であり、蛇がアダムを殺したのも、その反抗の一つだと考える。神は男女を創造し、生命を与えた。蛇、シバさんがアマにした行為は、旧約聖書聖典とする宗教において禁じられている、同性愛、殺人という行為。わかりやすい反抗である。神の特権を手に入れ、成り代わろうとした蛇の結果だ。
しかし、ここで更に私の意見を述べよう。この物語では全員が神に抗い続けていた。しかし、最も俯瞰的にすべてを見ていて、最も神に成り代わろうとすることが出来たのはルイではないのだろうか。シバさんはただ神に抗い続けただけであり、アマは殺された。だが、ルイは、抗い続けただけでなく、俯瞰的な神の目で、アマの死の核心に近づくことが出来たのだ。ルイは自分なりに全てに感づいたが、何も言わない。ただ俯瞰するのみである。その姿にこそ、私は最も神に近いものを見出す。
「男は世界を支配する、女は男を支配する」という言葉を耳にしたことがある。結論、蛇にピアスという世界観を支配していたのは、神に抗い続けた蛇と無知な男はなく、一見流され傍観しているように見えて、最も冷静に周りを見ていた、はじめからストーリーテラーという形を与えられていた女であったのだ。